制作事例その他(イラスト参考) >> 漢字と日本語表記
媒体の多様化のおかげで、校閲・事実関係チェックに関しては本当に楽になりました。たしかにインターネットの情報は、ほとんどがガラクタです。
しかしながら、川喜田二郎先生がおっしゃっていたように、多数のウソを集めることで、真実が透かし見えてくることはあります。衆知はむしろ権威とされる情報源より正確なことも多いのです。
もっとも皆が使うから正しいわけではありません。最近とても気になる言葉が「王道」です。
使うシーンを見ると、どうも「正しい道」「本筋・本道」の意味です。新聞記事でもそうです。「大道」を《おうどう》と読み違えたのでしょうか、《おおどう》ではやはり変換されません。《だいどう》という言葉自体を知らないのであれば、意味も知らないはずだし、不思議です。
もう一つ、「不倶戴天の敵」のことを「天敵」と言っているのも目につきます(耳にします)。これは同じ《天》が含まれているので混同したものでしょう。省略しているつもりではないと思いますが。
漢字の取り扱いについて
国語審議会が漢字表記の標準を康熙字典に求める、と唱えたことがあります。主に人名の異体字の多さを、なんとかしようとしたからです。
いま常用漢字と言っているものは、もと当用漢字と言っていました。当用とは当座、あるいは当分の間、用いるという意味です。
いつまで用いるつもりだったのかというと、漢字を全廃して日本語表記をローマ字にするまでです。それに伴って小学校でローマ字を教えていました。
漢字を使わないようにする計画だが、いきなりは無理なので、当面この漢字だけは用いてもいい、というのが当用漢字だったのです。
メチャクチャな話ですが、異体字を整理したり、一点一画にこだわる風潮を排除するということでは画期的なものでした。なのに、常用漢字と言い換えた時点で後退してしまいました。
いわゆる異体字の大半は、書き間違いや書き癖が固定されたものです。標準なんてもともとありませんし、活字のない時代は書き写すしかありませんから、その間に変わってきたのです。
字体とは違いますが、「日下部」は元は「草部」でした。書き写すうちに、草冠が取れてしまい「早部」となり、さらに「早」が分解され、「日十部」となりました。そのうちに誰かが、「十」を「か」と読むのはおかしいと考えて、「下」の文字を当てたのが固定されたものです。
万葉集が編纂された頃には、すでに枕詞の語源が分からなくなっていたようですから、和歌の歴史というか、言葉を操る歴史は相当古いものです。
にもかかわらず、日本人が文字を発明しなかったのは、必要性をあまり感じなかったからですね、おそらく(土器にホツマ文字らしきものが彫ってある写真は見たことがありますが)。
歌は本来、文字を書き連ねるものではなく口誦文学です。日本には、言霊という考えはありますが、文字に対しては、さほど重要視してこなかったようです。用が足りれば借り物で十分だったのでしょう。
漢字をもとにして表音文字を作ったのは、明らかに記号としてとらえています。ヨーロッパ語圏がフェニキア文字を借用したのと似ています。
乱暴な言い方をしてしまえば、日本では漢字なんてすべて当て字のわけですから、一点一画などどうでもいいのです。
昔の人は、そんなことにこだわってはいませんでした。読みが同じなら別の字を当てても平気でしたし、分家に出るときは、名字の一部を本家と別の字を用いたりするのは普通のことです。
区別するためにやっていたことですから、文字を単なる記号と考えていたのです。
昔(相当昔のことです)、あるTV番組で印鑑の職人さんが言っていたことを覚えています。
判子を彫るときには、普通に文字を書くときとは反対の方向から彫ると、やりやすくきれいにできるというのです。
これは漢字の成り立ちから見れば至極当然のことです。
かいつまんで言えば、漢字ももとは楔形文字です。粘土板とか石とか甲羅とかに鋭い針や刀(とう)で彫り込んだものが始まりです。彫ってみれば分かりますが、刀を入れた最初の所が太くなり、線は細長い三角形になります。
後の世に紙や筆が発明され、石に彫られた文字の形を写し取るときに、筆で書きやすいやり方が考えられました。(トメとか、ハネとか、ハライとかいうものです)筆法、運筆と呼ばれます。
判子屋さんの技術は、その逆の道筋で発展してきたわけです。そんな大層なことではなくて、この方がやりやすかっただけでしょう。考えれば当たり前のことで、一種の先祖返りみたいなものです。
中国において筆で書くことが一般的になり、楷書体などの筆で書きやすい字体ができてきました。行書体や草書体に至っては筆でなければ書けない字体です。
印刷で使われる「明朝体」は、イギリス人が中国人に作らせたものです。字体は、アルファベットのローマン体を真似たものです。ローマン体のもとは、羽根ペンの字体です。筆ではあんな書き方はできません。
日本にもたらされた明朝体が、書き文字とあまりにも違い、学校で字を教えるときに差し障りがあるということで、作られたのが教科書体です。(明朝体でも、ひらがな・カタカナは漢字と字体がだいぶ違うのにお気づきですか? 漢字以外は日本で作られたからです)
教科書体は筆で書いた文字にかなり近いものです。しかし今の小学校の書写の時間では、これを鉛筆で書かせています。
鉛筆書きで、ハネだとかハライだとか言っている。正気の沙汰とは思えません。
明朝体のバリエーションの一つにTV明朝というものがあります。モリサワの書体です。TVは走査線で表示されますから、明朝体の細い横線が飛んでしまいます。TV表示用に横線を太くしたのがTV明朝体です。
字の形なんていうものは、筆記具の変化で変わってきました。基準になるものや正解などどこにもありません。
インターネット上での日本語表記にゴシック体を使っているのは正しい選択ですね。本当は丸ゴシック系の方が読みやすいと思うのですが、改まった感じがしないから使われないようです。
ユニコードが標準になったら、漢字はなんと6万弱の字種になります。しかもそれらは、旧字・俗字などに加え、中国の簡体字、台湾の繁体字などを一緒くたにしたものです。
どうなるんでしょう、今よりいっそう混乱するのだけは確か、馬鹿げた話です。
日本語の表記
小学校教育関連で、文部省の役人や教員の感覚のずれはたくさんあります。
一つは最近よく見かける「子供」を「子ども」と書くことです。
どうも、子供の人権がどうとか言ってる小学校の教員が「子供は大人のお供ではない」という理屈で始めたことらしいのです。
その意図には言及しませんが、一つの単語を漢字仮名まじりで書いて平気というセンスが不思議です。私なんかはすごく違和感を感じるし、字面から「者ども控えおろう」なんてセリフを連想してしまいます。
彼ら小学校教員は、教育漢字の配当表で教えていない文字は仮名書きにする、というやり方に慣れているために平気なんでしょう。そのために感覚が麻痺しているのではなかろうかと思うのです。
学校教育の弊害のもう一つが、送り仮名の正誤です。
漢字の読みなどというのは、むりやり日本語を当てはめただけですから、読めればそれでいいのです。内閣告示の送り仮名の付け方にも、個々の表記に及ぼすものではない、と明記されています。
しかし試験の答では、正解は一つでなければなりません。教えた送り仮名以外はバッテンを付けられてしまいます。
試験では仕方ないことなのですが、問題は学校で教えた(習った)こと以外を、何の疑問もなく間違いとしてしまうことです。
教員は学校を出て、そのまま学校に就職します。そのうえ三代続いて教員などというのも珍しくありませんから、学校以外の世界を知りません。学校で教えることのみがスタンダードです。
官僚も似たようなもので、正解が一つしかない試験を受け続けた人間ばかりの集まりです。役人が使う「ほ場」もすごく変です。田圃の圃の字が常用漢字にないからだそうですが、田畑では威厳がないとでも思ったんですかね。
学校教育での文字の表記について 残念なのが分かち書きです
小学校低学年の教科書で 分かち書きが取り入れられています かなだらけで読みにくいからですが 英文などの表音文字では ワード間にスペースを入れるのは普通の書き方です
漢字の国中国では もともとは白文でした 記号類はありません 内容の区切りごとにスペースは入れていたかもしれません(原典は見てないのでわからない)
漢字が日本に伝わった時点では 中国読みだったのでしょう 日本語で読み下すようになると このままの状態では読みにくいので 返り点や センテンス・パラグラフ間に◯を入れたりという工夫をしていました
明治時代になって 印刷で句読点が使われるようになりました
いわゆる言文一致のスタイルでは 表意文字の漢字と表音文字の仮名が混在するので 大変読みにくかったからです 返り点などから借用した表記法のようです
もともと便宜的に始まったことですから 例えば目上の人に出す手紙文では句読点は入れるべきではありません しかし いつの間にか句読点を入れる書き方が標準とされるようになりました これも学校教育が原点ですね
現代中国の表記では 記号を使っています あれはどこから来たのでしょうか 句点(。)なんかは日本語の表記を真似たような感じですが
一般に使われている日本語ワードプロセッサーは デフォルトで禁則処理がされているでしょうから あまり意識されていないことですが web上では文頭に句読点が来たりすることがあります
最近のブラウザーは禁則処理の機能があるようですが そのため かえって変なところで強制改行されるので あまり改善されているとは言えません
インターネットは英文表記が基準なので 日本語独特の句読点の表記は考慮されていません 漢字 仮名だけでなく 句読点など(約物といいます)も2バイト文字で 1文字が1語として扱われるためです
その点 インターネット上の文字表記として 分かち書きは大変都合がいいのです この書き方が 小学校低学年での便宜的なものに終わっているのは 大変残念なことです
現在標準とされる日本語表記の大半は 実際は印刷の職人さんの工夫からきました 新聞記事の影響も大きかったと思われます
もうひとつ 何となく文章の書き方のお手本になったのが明治の文豪の小説です
よく「情に棹させば流される」の意味を取り違えている人が多いと言われます 江戸時代にこんな故事成語は使われていません 漱石の作り出した言い方です
これは「流れに棹さす」と「情に流される」を引っ掛けた 漱石一流のシャレなのです(夏目漱石は漢学の素養に加えて 江戸落語が大変好きでしたから)
漱石作品はほんとに当て字だらけです 新しい文章表現を模索した結果でしょう ところが後世の人が無批判に文章のお手本にしてしまったために(何しろ教科書に載っているのですから)混乱してしまったのです
制作事例その他(イラスト参考) >> 漢字と日本語表記